エデンの北から

京都洛北便り 古典文学で日々を楽しむ

さまざまな時代の猫~「猫の古典文学誌」鈴の音が聞こえる

19歳の猫と暮らしている。19年前、大阪にいた頃、ノラ猫を保護している方のところからやって来た。2度の引っ越しを経て今は洛北の地で老後を送っている。

名前は ひでまる。

雌猫なのだが、保護してくれた方が、きっぱりと「雄猫です。ボス猫タイプです」とおっしゃったので、ひでまると名付けた。数日後、獣医につれていって雌猫と判明した。

保護された方は何百匹もの猫をみてこられた方なので、どうして間違えたのだろうと思ったのだが、その後、獣医さんなども一目みて、雄で、ボス猫タイプですねと、おっしゃることが何度かあったので、そういう雰囲気があるのかもしれない。

いわゆる女王様キャラの猫で、年を取ってますます狷介、食べ物の選り好みも激しい。

 …

書いているときりがない、

今日のテーマは、うちの猫の話ではなくて、猫本紹介です。

 

世に、猫本、猫ブログ、猫動画、猫漫画、猫のTV番組、猫の絵、猫の小説、エッセイ、写真集、グッズ、無数にあるのだが、そして私も猫好きの例に漏れず、しょうこりもなく、そうしたものをみたり集めたりしているというか、していたのだが、ある時ほとんどを手放し、整理した。この本は手元にある数少ない本の一冊。日本の、古典の文献に現れた猫達ばかりを書いた本はそんなにたくさんはないはず。

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「猫の古典文学誌(講談社学術文庫)

著者は、田中貴子

中世国文学研究者 現在、甲南大学日本語日本文学科教授

著書に

「悪女伝説の秘密」角川ソフィア文庫

百鬼夜行の見える都市」ちくま学芸文庫

「外法と愛法の中世」平凡社ライブラリー

「中世幻妖 近代人が憧れた時代」幻戯書房

他多数。

この方の著書も何冊か読んで、これまた、私の古典の「師」の一人であるのだが、大変な猫好きで、美味しいもの好き、という面で親近感を抱いている。京都生まれ、今も京都にお住まいのようで、一度ある居酒屋で偶然お見かけしたことがある。

 

そのような猫好きの古典文学の研究者の方が「いつかかならず猫の本を出したい」という子供の頃からあたためていた想いに突き動かされ、古今の膨大な文献を読まれて書いた猫本。

 

第一章「猫」という文字はいつ頃から使われたか、から、はじまり、王朝貴族に愛された猫、和歌に詠まれた猫、ねこまたの話。

ねこまたは徒然草に有名な一段があるが、(実はねこまたではなく飼い犬だったというお話)、それ以外にもいろいろと出現しているらしい。

禅僧と猫、江戸時代の猫の生活、猫の絵、猫の俳句…などなど、たくさんのことが実際の資料にもとづいて、しかもわかりやすい文章で紹介されているのだが、私が一番面白かったのは、第六章 新訳「猫の草子」

 

「猫のさうし」という、江戸初期のお伽草子を著者が訳したもの。慶長七年に、「猫を繋がぬように」という法令が出された、という実際の話をもとにしたお話。猫が放し飼いになって、恐慌をきたしたネズミ達がある出家の夢に出てきて、窮状を訴える。出家が同情していると今度は猫が出てきて弁明する、猫もネズミもけっこう教養があって、ネズミが和歌を詠んだりするのが可愛い❤️

あらざらんこの世の中の思ひ出に今ひとたびは猫なくもがな

(私は死んでこの世からこの世からいなくなるようだが、あの世への思い出に、もう一度だけ猫がいなくなってほしいものだ)

いうまでもなく、この歌は、百人一首中の和泉式部の歌

あらざらんこの世のほかの思ひ出に今ひとたびのあふこともがな

のパロディである。

 

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ところで、この本を読んで、今まで知らなかった猫と人の関わりの歴史を知ることができたが、それと共に、古典文学を読む意味についても改めて考えさせられるところがあった。著者はこう書いている。

…古典における猫の意味は、近代の感性だけで切り取ってはいけないのである。

 たとえば、平安貴族のペットとなった唐猫など、現代人が「可愛いから、好きだから飼うのだ」と単純に考えては見えなくなってしまうものがある。

  (中略)

古典文学を読んで「昔も今と同じ感情を持っていたのだ」という共感を示す人は多く、それがおそらく古典文学が(細々とながら)今まで読み継がれてきた理由の一つだとは思うがそれだけでは

理解しがたいことも多い。

  (中略)

古典文学が生き残ってきたのは、どんな時代や環境の違いがあっても人はみな同じことを考えるということが「実感」されたからではない。むしろ、世の中が変われば人も変わる、ということを擬似体験できるからだといっていいだろう。単なる共感の「だだ漏れ」に終わらない古典文学の理解は、残された資料を読み解くという手続きさえ踏めばかなうのだ。その手続きを代行できるのが、研究者なのだと私は思っている。だから、私はいつまでも扉を開けて手招きし続けよう。ようこそ、猫の横道へ!猫好きもそうでない方も、まずはお入りになってみてくださいまし…

         学術文庫版あとがきより

 

 猫と人との関係だけでなく、人と人との関係も、さまざまな世の中の制度や、慣習も、時代が変われば変わる。

 

今の日本ではあたりまえのこととして、なんの疑問も抱かないことが、外国旅行をしたり、外国の人と話をしたりすると、あたりまえでないと気づかされる、そんなことは多いが、時間を遡って古典文学を読むことも同じような経験をさせてくれるのだ。

「伝統」とか、「日本的」といわれているものが、たかだかここ数十年のもので、平安時代や江戸時代、うっかりすると明治、大正時代でも、そんなものは影も形もなかったりする。

愛や、性のあり方も時代が違っても人間は同じだね、と思ってばかりいると、実はとんでもなくちがっていたりする。

 歴史や民俗学などの本で読むのもよいのだろうが、物語や歌のなかにそういうものを見つけながら読んでいくのは、本当に外国旅行をしているような、あるいは、同じ日本とは思えない違う異世界に旅行しているような気分になる。

 

 

 

ところで、上の写真の百人一首歌留多にある、在原行平の歌

立ちわかれいなばの山の峰に生ふるまつとしきかば今かへりこむ

これは、いなくなった猫が戻ってくるおまじないに使われた。この歌を書いた短冊を柱に張ったり、猫が使っていた茶碗に敷いたり。

猫だけでなく、いなくなった人や動物が帰ってくることを願うまじないにつかわれたともいう。